若い世代のジェンダー感覚の変化を感じました
ジェンダー文学!?
本の扉に「ジェンダー文学の新星!」という言葉が書いてあって、何だろうと思って手に取った本です。
作家の大前粟生さんは、プロフィールを見ると1992年生まれ、私から見ると20歳ぐらい下ということで、それだけ年が離れていると、世の中はどんな風に見えるんだろうと思いながら、興味深く読みました。
この本には4つの短編が掲載されています。
「ジェンダー文学」という括りとして扱われているのは、多分、一番最初に掲載されているこの4編の中では一番長く、タイトルにもなっている『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』のことなんだと思います。
主人公は、七森剛志(ななもり つよし)という、大学二年生の男の子。彼が、日常生活の中で様々なことを感じ、恋愛や、社会や、人間関係のことを考える、そういうお話です。
七森は、男の子だけれども、たくましいタイプではない、痩せていて、とても中性的、女の子の友人の方が付き合いやすかったりする。感性がとても細やかで、世の中に溢れる様々な情報や言葉、人間のちょっとした仕草や言葉から、様々な情報や感情を読み取ってしまう。
若い時代に特有の、みんな恋愛しなきゃいけない、みたいな雰囲気に、それって本当にそんなに大事なことなの、と思いつつ、
やっぱり、自分も恋愛しなきゃいけない、みたいなことを考えながら、
ぬいぐるみと話すサークルに入って、彼女を無理に作ろうとしたり、アルバイトに行ったりしながら、学生生活を送っています。
そんな生活の中で、
「女性の活躍する社会を」とうたわれた広告に「働く女性はオスになる」という文字を見て、女性が社会でやっていくには男性と化して男性社会に組み込まれないといけないという現実に落ち込んだり、
「どうせ女は。。。。」的な発言に傷ついたり、
痴漢されている女性を見た大好きな友人の麦戸ちゃんがショックを受けたことにも共感して、自分も深く傷ついてしまったり、
あるいは、母親が全ての家事をしていて、ビールをつがれ、ご飯をよそってもらっている父親に苛立ち、
女性的な外見から、男性トイレに入った時にそこにいた男性に「きしょくわる」と言われ、外に出るのが怖くなってしまう。
この主人公は、自分が男性という性に生まれ、この社会はジェンダー不平等な世の中であるがゆえの息苦しさを感じています。
七森は、とても繊細で、生きづらさを抱えている。
この物語は、そういう青年の青春物語という風にも見ることができます。
しかし、それは、社会に馴染んでいくための過程における、みそぎ的な出来事としての物語ではなくて、
こんな社会はおかしいでしょうという、とても友好的で優しいけれど、痛烈な批判なんだと感じました。
もしも、今の私たちの社会を本当にとてもフラットな視点で見たとしたら、やっぱり七森のように、深く傷ついてしまうんじゃないかと思うからです。
あえて「ジェンダー小説」と銘打ってあるのは、そういう視点を持った作家の感性を強調したかったのだろうと思いました。
小説だからこその共感
こういう、自分が見てきた世界と違う見方を経験することができるのが、小説の醍醐味だと思いますし、それこそが文学の力なのだと思います。
しかも、架空であるからこそ、普遍的なこととして見ることもできるのではないかなぁと思います。
「事実は小説より奇なり」と言いますが、現実に起こっている事の方が、よっぽどドラマチックだったりもします。しかし、現実に起こっていることを語られた場合だと、少し他人事というか、自分には遠い世界の出来事のように感じられるような気もします。
ちょっと話はそれるかもしれないのですが、
ついこの間、Kindle Unlimitedで見つけた本を読みました。
サブタイトルにあるように、男性社会において、女性の「第一号」として戦い、女性たちの先駆者となられてきた方々についての、丁寧な取材に基づいたノンフィクションの本です。
様々な分野で、女性として「初」を達成して、後進につなげてくれた先人の女性たちの活躍を紹介する、素晴らしい本です。
登場する女性たちは、いずれも、めちゃくちゃ過去の人ではありません。
古い方でも、戦前生まれ。せいぜい私の祖母ぐらいの年齢の女性達です。
それなのに、彼女たちが受けてきた仕打ちの数々、その時代には当たり前のことだったのだろうとは思うのですが、あまりにも酷くて、辛くて、苦しくなってしまって、なかなか読み進められませんでした。
最初の男女雇用均等法が施行されたのが、私が小学生の時。私にとってはつい最近の出来事のようにも思われるのですが、それ以前に、どれほど日本が男女不平等の世の中だったのか、そして、人間として、当たり前の権利が与えられるために、どれほどの血みどろの闘いが繰り広げられなければならなかったのか、読めば読むほど、あまりに悲しくて、苦しくなってしまいました。
さらに、今、ここまで酷くてあからさまな女性差別がなくなりつつある現代に生きている私が、読めば読むほど、どんどん、自分が傷ついていくように感じました。
それは、わたしには、こんな目にあっても頑張り続けることはできないと圧倒されたということもあるのですが、
こんなにまでして頑張ることができなければ、これ以上変えていくことはできないのだという絶望感を覚えたからだと思います。
私が、女性という、差別を受ける側の性だから、読んでいてこんなに苦しくなるんだろうか。
でも、途中で、そういうわけでもないのかもしれないと思いました。
もし、私が男性だとしても、そういう価値観に染まっていなかったとしたら、自分が優遇される立場であるからこそ、こんなことがまかり通っていた社会をよしとすることには胸が痛むことだと思ったんです。
私は、ちょっと前の女性たちのように、こんなにひどい女性差別を受けたことはありません。でも、不平等は今もってなくなってはいないし、日本のジェンダー指数も低いままです。
差別は、差別される者でなくとも、深く傷つくことなんだと思いました。
だから、最初の『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の主人公、七森剛志の現代の日本の社会のジェンダー不平等な出来事の一つ一つに傷ついていく気持ちに、すごく共感できたんです。
そして、社会のこの現状を放置してはいけないんだと思いました。
向き合うではなく寄り添う
もう一つ、この本で描かれている感性が面白いなぁと思ったところは、とにかく、とても優しいんです。
今の二十代の人たちが、ここに登場している主人公の七森や、友達の白城さんや、麦戸ちゃんみたいな感じなのかはわからないのだけど、
本当に、とてもとても優しくて、しかも、その優しさには全然嘘がない。
私の場合、自分の感覚として、誰かに優しくするのは、あくまで人に優しくすると、いいことがある、ということが叩き込まれているため、結局は自分のためなんだということをどこかで意識している気がするんですが、
どうも、この登場人物たちには、そういった人間のエグさみたいなことが一切感じられなかったんです。
それに、人が人に出会うということは、自然に対立的な構造が生まれるものだという感覚が私の中にはあるのですが、そういった感じもあまり感じられないのです。
ここに出てくる人たちが向き合っているのはぬいぐるみで、人間たちは、ぬいぐるみに向かっているそれぞれの人が横に寄り添っている、そういう風に描かれているように感じられました。
それってどういう事なんだろうって、思った時に、何か、生存のあり方が決定的に違うような気がしました。
やはり、人に向き合うということは、どうしても対立構造になります。
そして、それは喧嘩などのネガティブな対立ではなくとも、それぞれの存在が影響し合うし、それ以前に、それぞれの存在を認めてもらい、認め合わなければならなくなる。それを受け入れられるかということが問題になってきます。
でも、人と人とが横並びの構造だと、それぞれの人が存在しているのは、別に誰かと向き合うことで相対的に生まれてくるのではなく、それぞれが、どこか独立した個としてすでに存在していることが自明な感覚なのかなと思ったんです。
なかでも、
「大丈夫」
という言葉が象徴的に使われているのが、とても印象的でした。
自分が大丈夫かどうか、相手が大丈夫かどうか、
これも、個人がすでに確立されているからこそ言える言葉ではないかと思いました。自分は、ここで大丈夫とか、自分はこれ大丈夫じゃない、とか。
一見、とても繊細だけど、自分が確立しているというのは、もしかしたら、とても強いのかもしれません。
自分の中にはなかった新しい感覚が、とても面白い本でした。
そのほかにも、
「ワンチャンあった」とか
私の日常にはなかった言葉をたくさん見つけて、とても新鮮でした。
言葉が生きていることを改めて実感しました。
というわけで、この本、オススメです!